LGBTとキリスト教に関して

私は、元々、福音主義の教会でキリスト教を学び洗礼を受けました。
なので、聖書は原典において誤りない言葉として受け止めておりました。
翻訳の問題もありますが、基本的に聖書は100%正しいものと受け止めていました。

その考え方を変える出来事が私に起こりました。
私の友人が、LGBTであることを告白している牧師:平良愛香先生の教会に通っていたのです。
それで、その友人が亡くなりました。
その葬儀の場で、私は平良先生に出会うことになります。
その時、私と平良先生は、特に言葉は交わしませんでしたが、間近に長時間一緒に居たのです。

私は、平良先生のことは以前から存じ上げておりました。
自分の住んでいる街と同じ街に平良先生の教会があり、友人もその教会に通っていたからです。

でも、直接、会うことになるとは思ってもみなかったのです。
友人は日本人の平均年齢からするとまだ若く、私は友人が亡くなるとは思ってなかったのです。
その友人が亡くなる2週間ほど前に、私の家で鍋を一緒に食べました。
楽しく、一緒にカニ鍋を食べたのです。
それが、まさか2週間後に亡くなるとは思ってもみなかったのです。

その友人の死が、私と平良先生を会わせることになりました。
これは私にとって実に衝撃的なできごとでした。

私は、同性愛は罪であると考えていたのですが、その同性愛者である平良先生がいきなり目の前に現れたのです。
これは、私にとって、現実が論理を超えた瞬間でした。
現実が理屈を超えたのです。

物理学を考えてみましょう。
ニュートン力学は、多くの場合、正しいと思われていました。
でも、極限状態の力学は、ニュートン力学では説明の付かない事象に遭遇します。
この場合も、現実がニュートン力学と言う論理を超えていることになると思います。
この場合、その極限状態の力学に対応する新しい論理が必要になると思います。
それで、アインシュタインの相対性理論がその現実を説明するものとして成立するわけです。
また、それまでの物理学の論理では説明の付かない微小な世界の出来事を説明する理論として、量子力学などの論理が登場するのです。

現実は、必ずしもそれまであった理論や理屈で全て説明できるとは限らないのです。
現実は、必ずしもそれまであった理論や理屈の通りに100%なっているとは限らないのです。

聖書に関してもそうだと思います。
聖書は、多くの点で正しいと思います。
でも、100%正しいとは限らないのです。
聖書が100%現実通りになっているとは限らないのです。

聖書全体の文章から考えたら、ほんの僅かの部分になりますが、現実と異なる部分が生じていると思うのです。
例えば、聖書に出てくる奴隷制度を考えてみましょう。
今、基本的にその制度無いですよね。
これと同じように、LGBTに関することも、社会やキリスト教の教会も考えて行かなくてはならないと思います。
はっきり言うと、LGBTは罪ではありません。

私は、現実世界で平良先生に会った者として、平良先生に石を投げつけるようなことはできません。
聖書でむやみに人を傷つけることはしてはいけません。

私は、LGBTに関して肯定も否定もしないという立場も取ることもできません。
そういう立場を取ることも、平良先生に石を投げつけることと同じことになると思うからです。

以上で、私のLGBTに関する文章は終了させていただきます。

2020年8月17日 深澤信行

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©Nobuyuki Fukasawa 2020